2006年02月16日

艦上機と艦載機

帝国海軍の軍艦上で運用する航空機には、「艦上機」と「艦載機」の2種類があります。

●艦上機
 航空母艦に搭載される航空機を指します。
 発艦・着艦は、航空母艦の飛行甲板を利用します。
 主な機種:艦上戦闘機、艦上爆撃機、艦上攻撃機、艦上偵察機など

●艦載機
 戦艦や巡洋艦に搭載される水上機を指します。
 発艦はカタパルト、収容はクレーンを利用します。
 主な機種:水上偵察機、水上観測機など

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超弩級戦艦

大きさや迫力が他を圧倒しているモノの接頭語として、「弩級(ド級)」とか「超弩級(超ド級)」と言う言葉がよく使われます。この「弩級(ド級)」、「超弩級(超ド級)」とは、イギリス海軍の「戦艦ドレッドノート」に由来する言葉です。

戦艦ドレッドノートは、1906年にイギリス海軍が日本海海戦の戦訓を全面的に取り入れて建造した革命的な戦艦です。それまでの戦艦は、戦列艦時代の名残からか、主砲と副砲、その間の中間砲など、雑多な口径の砲をなんとなく全周に配置していました。これに対して戦艦ドレッドノートは、艦の中心線上に単一口径の大口径主砲を並べて配置し、艦の左右どちらにも主砲を指向できるようにしていました。これにより、それまではたくさんの主砲を搭載していても、実際に砲撃できるのは右舷または左舷の主砲のみだったのが、全ての主砲で砲撃が可能となりました。これは、戦艦1隻当たりの攻撃力が数倍になったことを意味します。また、蒸気タービンの採用で機関出力と速度も向上しました。

この戦艦ドレッドノートの出現によって、それまでの戦艦は一気に旧式化しました。これにより、戦艦ドレッドノート出現以前に建造された戦艦を前弩級戦艦(前ド級戦艦)戦艦ドレッドノートと同じ設計思想で建造された戦艦を弩級戦艦(ド級戦艦)、そして、後に戦艦ドレッドノートを超える設計で建造された戦艦を超弩級戦艦(超ド級戦艦)と呼ぶようになりました。

●前弩級戦艦(前ド級戦艦)
 戦艦ドレッドノート出現以前に設計された戦艦。旧式戦艦。

●弩級戦艦(ド級戦艦)
 戦艦ドレッドノートと同じ設計思想の戦艦。

●超弩級戦艦(超ド級戦艦)
 戦艦ドレッドノートを超える設計の戦艦。

なお、戦艦ドレッドノートを誕生させたイギリス海軍は、それまでも大海軍を擁し、海軍力において他の列強より優位に立っておりましたが、皮肉にも戦艦ドレッドノートを誕生させたことにより、保有する全ての戦艦が旧式戦艦になってしまいました。また、列強は弩級戦艦(ド級戦艦)を次々と建造する「建艦競争」の時代に突入し、第一次世界大戦の遠因になりました。この「建艦競争」は、結局、第一次世界大戦後のワシントン海軍軍縮会議まで続くことになります。

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2006年02月14日

航空戦艦

大日本帝国海軍には「航空戦艦」という他国にはない軍艦が有りました。航空戦艦と書くと、なんだか「空飛ぶ戦艦」をイメージしそうですが、空は飛びません。その正体は、戦艦伊勢戦艦日向の第5砲塔、第6砲塔を撤去して、そこに航空機射出用の飛行甲板とカタパルトを装備したものです。

元々、戦艦伊勢戦艦日向は、36センチ連装砲塔を6基搭載(艦前方に2基、艦中央に2基、艦後方に2基)した戦艦でした。しかし太平洋戦争においては、海戦の主役は戦艦から航空機、航空母艦に移りました。そのため速力の遅い戦艦伊勢戦艦日向は、金剛級戦艦(旧巡洋戦艦、高速戦艦)のように航空母艦と行動を共にすることができないため、活躍の機会は無くなるかと思われていました。

しかし、ミッドウェー海戦によって帝国海軍は主力空母4隻を一度に失い、海上航空戦力を急遽補充する必要に迫られました。そこで考え出されたのが、戦艦伊勢戦艦日向の艦後方にある第5砲塔、第6砲塔を撤去して、そこに飛行甲板を設置し、航空機を発艦させるという、航空戦艦でした。

戦艦伊勢戦艦日向は1943年(昭和18年)に改装されて航空戦艦伊勢航空戦艦日向となりました。しかしその結果、非常に中途半端な軍艦となってしまいました。飛行甲板はそのままでは航空機が発艦できないくらい短く、航空機の発艦にはカタパルトが必要でした。また、このように短い飛行甲板なので、当然、航空機の着艦は出来ません。そして、航空戦艦で運用するための航空機自体の開発が遅れ、搭載機の生産がなかなか出来ない状態でした。

航空戦艦伊勢航空戦艦日向は、フィリピン沖海戦に参加しましたが上記のような状態だったので、その航空戦力による戦果はほとんどありませんでした。しかし、意外なところで戦果をあげております。戦艦から航空戦艦に改装した際に対空兵装の拡充を行っており、当時最新鋭対空兵器だった対空ロケット砲を搭載しておりました。これにより多数のアメリカ軍航空機を撃墜し、撃沈を免れ、無事日本に帰還しております。

なお、航空戦艦伊勢航空戦艦日向は、1945年(昭和20年)7月28日、アメリカ軍による呉空襲により大破着底し、軍艦としての生涯を終えました。

<公爵の独り言>
航空戦艦は時代が産んだ徒花ですね。

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潜水艦の命名基準

大日本帝国海軍の潜水艦の命名基準について書きます。
帝国海軍において潜水艦は、排水量によって以下のように分類されます。

伊号潜水艦:排水量1,000トン以上の大型潜水艦(一等潜水艦)
呂号潜水艦:排水量500トン以上1,000トン未満の中型潜水艦(二等潜水艦)
波号潜水艦:排水量500トン未満の小型潜水艦(三等潜水艦)


伊号潜水艦の命名基準は、「伊号第●●潜水艦」です。
※「●●」には番号が入ります。

<帝国海軍の主な伊号潜水艦>
伊号第四〇〇潜水艦(通称:伊四〇〇潜、伊四〇〇、イ四〇〇潜、イ四〇〇)

呂号潜水艦の命名基準は、「呂号第●●潜水艦」です。
※「●●」には番号が入ります。

<帝国海軍の主な呂号潜水艦>
呂号第一〇〇潜水艦(通称:呂一〇〇潜、呂一〇〇、ロ一〇〇潜、ロ一〇〇)

波号潜水艦の命名基準は、「波号第●●潜水艦」です。
※「●●」には番号が入ります。

<帝国海軍の主な波号潜水艦>
波号第二〇一潜水艦(通称:波二〇一潜、波二〇一、ハ二〇一潜、ハ二〇一)

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駆逐艦の命名基準

大日本帝国海軍の駆逐艦の命名基準について書きます。
帝国海軍において駆逐艦は、排水量によって以下のように分類されます。

一等駆逐艦:排水量1,000トン以上の駆逐艦
二等駆逐艦:排水量1,000トン未満の駆逐艦


一等駆逐艦の命名基準は、「気象、天候、季節、植物の名前」です。

<帝国海軍の主な一等駆逐艦>
峯風、神風、睦月、吹雪、初春、白露、朝潮、陽炎、夕雲、秋月、島風、
松、竹、梅、桃、桑、桐、杉、槇、樅、樫、榧、楢、桜、柳、椿、檜、楓、欅

二等駆逐艦の命名基準は、「植物の名前」です。

<帝国海軍の主な二等駆逐艦>
樅、榧、楡、栗、梨、竹、柿、栂、菊、葵、萩、薄、藤、蔦、葦、菱、蓮、菫、
蓬、蕨、蓼、若竹、呉竹、早苗、早蕨、朝顔、夕顔、芙蓉、刈萱

なお、帝国海軍の二等駆逐艦は、大正時代に建造されたため旧式化しており、太平洋戦争中は主に船団護衛などに従事しました。

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2006年02月12日

天皇旗

天皇旗とは、天皇陛下が座乗されるお召し艦お召し艇に掲げられる旗のことです。以下のようなデザインをしています。

tennoki.jpg

なお、天皇陛下の所在を示す天皇旗は同時に二つ掲げられることはなく、その掲揚のタイミングには非常に神経を使ったと言われております。

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お召し艦

天皇陛下が座乗される軍艦のことを「お召し艦」と呼びます。また、お召し艦に随行する軍艦のことを「供奉艦」と呼びます。お召し艦は、それ専用の軍艦が建造されるわけではなく、観艦式や行幸の時に天皇陛下が座乗された軍艦がお召し艦と呼ばれます。また、天皇陛下が座乗されると、お召し艦のマストには天皇陛下の所在を示す「天皇旗」が掲げられます。

また、天皇陛下が座乗する内火艇(内燃機関を装備した小型艇)は「お召し艇」とよばれ、天皇陛下座乗中はこれにも天皇旗が掲げられます。お召し艇天皇旗は、天皇陛下がお召し艦に移乗した瞬間に降ろされ、同時にお召し艦天皇旗が掲げられます。天皇陛下の所在を示す天皇旗は同時に二つ掲げられることはなく、その掲揚のタイミングには非常に神経を使ったと言われております。

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練習巡洋艦の命名基準

大日本帝国海軍の練習巡洋艦の命名基準について書きます。
練習巡洋艦の命名基準は、「神社名」です。

<帝国海軍の主な練習巡洋艦>
香取、鹿島、香椎

なお、「練習巡洋艦」とは、訓練用の巡洋艦として設計された巡洋艦のことです。戦争中は潜水艦隊の旗艦や船団護衛に使われました。

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軽巡洋艦の命名基準

大日本帝国海軍の軽巡洋艦(二等巡洋艦)の命名基準について書きます。
軽巡洋艦の命名基準は、「河川名」です。

<帝国海軍の主な軽巡洋艦>
天龍、龍田、球磨、多摩、北上、大井、木曽、長良、五十鈴、名取、由良、鬼怒、
阿武隈、川内、神通、那珂、夕張、阿賀野、能代、矢矧、酒匂、大淀

巡洋艦は大きく分けて「軽巡洋艦」と「重巡洋艦」に分類されます。この分類は、1921年〜1922年(大正10年〜大正11年)のワシントン海軍軍縮会議によって決められ、主砲の口径が5インチ(12.7センチ)以上6インチ(15.5センチ)未満の巡洋艦を「軽巡洋艦」、主砲の口径が6インチ(15.5センチ)以上8インチ(20.3センチ)以下の巡洋艦を「重巡洋艦」と定義されました。また、ワシントン海軍軍縮会議では主力艦の建造数のみ制限され、巡洋艦は分類が定義されただけで建造数は無制限でしたが、1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議では「軽巡洋艦」、「重巡洋艦」それぞれの建造数にも制限が掛けられ、その制限は日本がこの会議を脱退する1936年(昭和11年)1月15日まで続きました。

なお、帝国海軍の「重巡洋艦」に「古鷹」、「加古」、「最上」、「三隈」、「鈴谷」、「熊野」、「利根」、「筑摩」と言った、艦名が「河川名」の艦がありますが、これらの艦は名前の通り、元々は「軽巡洋艦」として計画・建造・就役した艦です。後に、計画を変更したり、兵装を改装して「重巡洋艦」となったものです。

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重巡洋艦の命名基準

大日本帝国海軍の重巡洋艦(一等巡洋艦)の命名基準について書きます。
重巡洋艦の命名基準は、「山岳名」です(巡洋戦艦と同じ扱いです)。

<帝国海軍の主な重巡洋艦>
古鷹、加古、青葉、衣笠、妙高、那智、足柄、羽黒、高尾、愛宕、摩耶、鳥海、
最上、三隈、鈴谷、熊野、利根、筑摩

ところで、巡洋艦は大きく分けて「軽巡洋艦」と「重巡洋艦」に分類されます。この分類は、1921年〜1922年(大正10年〜大正11年)のワシントン海軍軍縮会議によって決められ、主砲の口径が5インチ(12.7センチ)以上6インチ(15.5センチ)未満の巡洋艦を「軽巡洋艦」、主砲の口径が6インチ(15.5センチ)以上8インチ(20.3センチ)以下の巡洋艦を「重巡洋艦」と定義されました。また、ワシントン海軍軍縮会議では主力艦の建造数のみ制限され、巡洋艦は分類が定義されただけで建造数は無制限でしたが、1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議では「軽巡洋艦」、「重巡洋艦」それぞれの建造数にも制限が掛けられ、その制限は日本がこの会議を脱退する1936年(昭和11年)1月15日まで続きました。

さて、上記の艦の内、艦名が命名基準にマッチしていないものがあります。「古鷹」、「加古」は「山岳名」ではなく「河川名」がついておりますが、これは「軽巡洋艦」として建造計画が立てられたためです。

最上」、「三隈」、「鈴谷」、「熊野」も「河川名」がついておりますが、これは元々「軽巡洋艦」として建造・就役した巡洋艦であるためです。ロンドン海軍軍縮会議脱退後、主砲を15.5センチ砲から20.3センチ砲に換装し、「重巡洋艦」となりました。なお、これらの艦が「軽巡洋艦」から「重巡洋艦」に改装されたことはミッドウェー海戦の頃まで世界に知られておらず、ミッドウェー海戦を撮影した写真を見て改装されたことを知ったアメリカ海軍が驚愕したというエピソードがあります。

また、「利根」、「筑摩」も「河川名」がついていることから分かるように、元々は「軽巡洋艦」として建造計画が立てられた巡洋艦です。しかし、就役がロンドン海軍軍縮会議脱退後になることが分かったため、計画を変更して「重巡洋艦」として建造・就役しました。

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2006年02月08日

漁民を救った帝国海軍

インターネット上の掲示板サイト「2ちゃんねる」。ここに時々投稿される帝国海軍関係のエピソードを紹介します(改行等は読みやすくするために多少手を加えております)。
日本海軍は北洋警備・北洋漁業保護の為に、最旧式駆逐艦を以て編成する駆逐隊の一隊(定数四隻、司令は大佐または古参の中佐)を毎シーズン派遣しておりました。

國民性なのでせうか、蘇聯は昔から露骨な國で、我が駆逐隊が漁業海域に到達し警備任務に就くや、日頃横暴なる蘇聯艦艇も、途端に猫の如く大人しくなりました。だから駆逐隊は毎度漁民から熱狂的大歓迎を受けたものですが、必要に応じ、戦隊若くは艦隊を神速に派遣することも行はれたやうです。

父の友人に「ひうらさん」といふ越後人がありました。生きて居られればゆうに百歳超えませう。明治の御代に雪の越後を後にして、刻苦勉励、数多辛酸を嘗め、戦後は小金持になり、銭湯など経営して世を終へられました。この御仁が、大正の末か昭和の初め、蟹工船に乗組んで北洋漁業に従事してゐた時の話です。

氷濤の中、果敢に操業してゐた或日、突然蘇聯の警備艦艇に謂れ無く拿捕され、乗組員一同、浦塩に聯行、抑留されました。此処までは今日と同じです。取調べは惨たらしいもので、生きて再び日の目を拝めるかと思った程ださうですありもせぬ犯罪事實の自白を強要され、半殺し状態で朝を迎へ、再び鐵格子の中から引き出されました。

いよいよ殺されるかと半ば覚悟した途端、何故か赤魔官憲の態度が掌を返す如くに豹変し、捜査は打切り、無罪放免、露西亜紅茶まで振舞はれてにこやかに釈放するではありませんか。解き放たれたひうらさん達は警察署だか獄舎だかの外へ出ました。天然の港町なら大概、地形的に港へ向って傾斜し、海側の眺望が開けているものです、半信半疑の儘、ともかくも港へ向はむとふらつく脚を海へ向けました。その瞬間、何故、助かったかが判りました。

沖には日本海軍の大艦隊が間近く展開し、旗艦たる巡洋艦以下、各艦砲身を陸に向け、砲門を開き、その強大な攻撃力は毎分幾百幾千發ぞ、陛下の赤子にかすり傷だに負はせなばウラジオストックそのものを消滅させんばかりの圧倒的武威を以て、ソヴィエト社會主義共和國聯邦を威圧して呉れてゐたのです。旭日の軍艦旗の何と美しく、浮かべる城の何と頼もしかったことでせう。皆、感泣しました。鋼鐵の艦体に頬ずりしたい思ひで・・・。ひうらさんは無事、日本に帰りました。

取るにも足らぬ漁舟の、僅かな人数の乗組員の為に、大國相手の戦争をも辞せず、瞬く間に艦隊を繰り出して救出してくれた祖國日本の親心に酬いる為にも、なほ一層仕事に励み、三代の御代を生き抜き、東京都江戸川区小岩の自邸で、四半世紀ほど前に大往生を遂げられました。勤倹貯蓄、關東大震災の前の歳に買ったといふ革靴を、靴底だけ張替へ張替へして生涯穿き続けました。

「贅澤をする金があったら海軍に献金でもせい!」
今の日本にも、これくらいの気概が欲しいものです。

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航空母艦の命名基準

大日本帝国海軍の航空母艦(空母)の命名基準について書きます。
航空母艦の命名基準は、「鳥や龍など、飛翔する動物の名前」です。

<帝国海軍の主な航空母艦>
鳳翔、龍驤、赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴、隼鷹、飛鷹、大鳳、信濃
雲龍、天城、葛城、瑞鳳、祥鳳、龍鳳

しかし、上記の艦名で命名基準にマッチしていない艦がいくつかあります。

赤城」は元々「巡洋戦艦」として建造されました。しかし1921年〜1922年(大正10年〜大正11年)のワシントン海軍軍縮会議により主力艦(戦艦、巡洋戦艦)の保有量が制限されたため、巡洋戦艦「赤城」は航空母艦に改装されました。

加賀」も元々「戦艦」として建造されました。しかしワシントン海軍軍縮会議によって廃艦にされる予定でした。ところが巡洋戦艦「赤城」と同じく、航空母艦に改装予定だった巡洋戦艦「天城」が関東大震災で大破したため、廃艦予定だった戦艦「加賀」が航空母艦に改装されました。

信濃」は元々「大和型戦艦3番艦」として建造されました。しかしミッドウェー海戦にて帝国海軍が一挙に4隻の正規空母を失ったため、戦艦「信濃」は航空母艦に改装されました。

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巡洋戦艦の命名基準

大日本帝国海軍の巡洋戦艦の命名基準について書きます。
巡洋戦艦の命名基準は、「山岳名」です。

<帝国海軍の主な巡洋戦艦>
金剛、比叡、榛名、霧島

なお、これらの艦は、建造時は巡洋戦艦でしたが、後に改装されて戦艦に分類されるようになりました。それ以降、帝国海軍では巡洋戦艦の艦種は廃止されました(艦種は戦艦で、通称、高速戦艦と呼ばれていました)。

また、真珠湾攻撃で有名な帝国海軍機動部隊旗艦だった航空母艦「赤城」は、その名前の通り、元々は巡洋戦艦として建造され、後に航空母艦に改装された艦です。

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戦艦の命名基準

大日本帝国海軍の戦艦の命名基準について書きます。
戦艦の命名基準は、「旧国名」です。

<帝国海軍の主な戦艦>
大和、武蔵、長門、陸奥、伊勢、日向、山城、扶桑、金剛、比叡、榛名、霧島

なお、「扶桑」と言うのは日本の古い呼び名です。また、「金剛」、「比叡」、「榛名」、「霧島」のネーミングが他の艦とちょっと違いますが、これはこれらの艦の艦種が元々「戦艦」ではなく「巡洋戦艦」であったためです(建造時は巡洋戦艦、後に改装して戦艦)。

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