2006年09月24日

海兵と陸士

大日本帝国海軍における士官養成学校は「海軍兵学校」(略称:海兵)と言います。これに対して、大日本帝国陸軍における士官養成学校は「陸軍士官学校」(略称:陸士)と言います。海軍と陸軍では微妙に用語が違うので注意が必要です。

なお、将官を養成する高等教育機関は、帝国海軍では「海軍大学校」(通称:海軍大学、略称:海大)、帝国陸軍では「陸軍大学校」(通称:陸軍大学、略称:陸大)と言います。これは海軍も陸軍も同じ感じですね。

<公爵の独り言>
帝国海軍の将官はほとんど海大卒ですが、特攻の生みの親として有名な大西瀧治郎海軍中将や、キスカ島撤退作戦で有名な木村昌福海軍中将は、海大を卒業せずに将官になっています。

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提督と将軍

大日本帝国海軍に限った話ではありませんが、海軍においては少将(または准将)以上の将官を総称して「提督」(英語名:Admiral)と呼びます。一方、海軍以外の陸軍や空軍においては、同様の将官のことを「将軍」(英語名:General)と呼びます。海軍と陸軍では微妙に用語が違うので注意が必要です。

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海軍士官と陸軍将校

大日本帝国海軍においては、少尉候補生以上の階級を総称して「海軍士官」、「士官」と呼んでおりました。一方、大日本帝国陸軍においては、少尉以上の階級を総称して「陸軍将校」、「将校」と呼んでおりました。ですから、逆の呼び方である「海軍将校」、「陸軍士官」と言う呼び方はあまりしなかったようです。海軍と陸軍では微妙に用語が違うので注意が必要です。

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提督の決断Wの最長継戦期間

コーエーの戦略・海戦ゲーム「提督の決断W」。このゲームが、ゲーム内の日付で最長いつまでプレイできるか試してみました。このプレイで用いたのは、1939年9月からスタートするキャンペーンゲーム「狼群作戦」。私は枢軸軍(大日本帝国、ドイツ第三帝国)の大日本帝国でプレイし、連合軍(大英帝国、アメリカ合衆国)を圧倒。しかし連合軍が降伏してしまわないように、連合軍の拠点数ヶ所をわざと残して戦争を継続してみました。

1950年(昭和25年)・・・太平洋戦争継戦中!
1960年(昭和35年)・・・太平洋戦争継戦中!!
1970年(昭和45年)・・・太平洋戦争継戦中!!!
1980年(昭和55年)・・・太平洋戦争継戦中!!!!
1990年(平成02年)・・・太平洋戦争継戦中!!!!!
1999年(平成11年)・・・太平洋戦争継戦中!!!!!!

一体いつまでプレイできるのかと思っていたところ、1999年12月第4週まで枢軸軍と連合軍の決着が付かないと、2000年1月1日に停戦協定を結んで終了してしまうことが分かりました。最長60年3ヶ月の戦争・・・。現代ではありえない超長期戦ですね。

なお、60年近く戦争を続けても、提督が病気や老衰で死亡したり、艦船や航空機が老朽化して廃棄されたりはしません(笑)。あとちょっと古い話ですが、初代「提督の決断」の頃は、艦船に提督を座上させたまま「艦船処分」を行うと、何故か提督が死亡することがありました。艦と運命を共にしたのでしょうか? また、艦齢が高くなると、突然の事故による喪失や、戦闘中の喪失の頻度が高くなったような気がします。

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最近まで残っていた海防艦

海防艦とは軍艦の一種で、近海・沿岸の防備、領海警備、漁業警備、船団の護衛など主要な任務とする艦のことです。帝国海軍における海防艦は2種類あります。一つ目は明治時代に建造された旧式艦(巡洋艦や戦艦など)を海防艦に種別変更したもの。二つ目は昭和12年以降に建造された漁業保護や船団護衛を目的とした小型艦。通常、海防艦と言うと、後者の方を指します。

ところで、帝国海軍の海防艦がつい最近まで残っていたことをご存知でしょうか? その海防艦の名は「志賀」。昭和19年(1944年)から昭和20年(1945年)にかけて20隻建造された鵜来級海防艦の1艦です。

鵜来級海防艦要目
基準排水量:940トン
全長:78.8メートル
全幅:9.1メートル
喫水:3.0メートル
エンジン:22号10型ディーゼルエンジン2基2軸
馬力:4,000馬力
速力:19.5ノット
航続距離:16ノットで5,000海里
兵装:45口径12センチ高角砲 連装1基・単装1基、25mm三連装機銃2基、九四式爆雷投射機2基、三式爆雷投射機16基、爆雷投下軌条2基、爆雷120個など。
海防艦志賀は太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)3月20日に竣工しました。そして呉防備戦隊に編入され、4月6日の戦艦大和沖縄出撃時、豊後水道南部で敵潜水艦を捕捉し、爆雷投射でこれを撃沈すると言う戦果を上げております。そして同年5月始めに舞鶴で改装され、対馬海峡の対潜哨戒・機雷処理に従事しているた7月31日、壱岐半城浦において来襲した敵戦闘機P51を2機撃墜するという戦果を上げております。海防艦志賀はなかなかの武勲艦だったと言えます。海防艦志賀はその後も哨戒任務に従事し、敗戦を迎えました。

敗戦後の海防艦志賀は、数奇な運命を辿ることになります。昭和21年(1946年)から昭和24年(1949年)まで米軍連絡船として利用され、博多・釜山間を就航しました。その後昭和25年(1950年)から昭和28年(1953年)までは中央気象台定点観測船「志賀丸」として就航。昭和29年(1954年)1月からは海上保安庁の練習艦「こじま」として、海外在留邦人の引き上げ輸送等に従事しました。そして昭和40年(1965年)4月、とうとう廃役となったのです。

さて、海防艦志賀はこうして20年に渡る船舶としての生命を終えたのですが、今度は何と公民館として利用されることになりました。海防艦志賀(練習艦こじま)は昭和40年(1965年)8月に千葉市に払い下げられ、昭和41年(1966年)8月18日に「海洋公民館」として生まれ変わったのです。海洋公民館となった海防艦志賀(練習艦こじま)は、当初岸壁に係留された状態で公開されていたのですが、後に船体の周囲は埋め立てられ、団地の中の公民館施設として利用されました。

こうして静かな余生を送ってきた海防艦志賀(練習艦こじま)ですが、今度は一転、解体の危機を迎えます。海防艦志賀(練習艦こじま)は老朽化の為、既に海洋公民館としての利用を終了していたのですが、地域開発の一環として、解体されることとなったのです。しかし残存する唯一の旧海軍戦闘艦艇の経歴を持つことから保存運動が持ち上がったそうですが、結局保存されること無く、平成10年(1998年)に解体されてしまいました。

なお、海防艦志賀(練習艦こじま)の艦橋内の機器の一部が千葉県の稲毛記念館に艦橋を模して展示されているほか、艦首部分は、栃木県の那須戦争博物館に展示されているそうです。

海防艦志賀
http://www.ne.jp/asahi/mili/surva/ivent/koz/kozbun.html

海とKISSと太陽と 鵜来(改乙)型
http://www.down.ne.jp/ish/ijn/axhist/ukuru.html

海防艦「志賀」保存問題
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Study/Study077.html

「こじま」解体開始
http://www2.famille.ne.jp/~kurimata/hozon4.html

とんぺいの機械博物館 那須戦争博物館(那須高原)
http://homepage3.nifty.com/tompei/WarMuseumNasu.htm

あれそれこれ博覧会 戦争博物館 栃木/那須
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/heiki2/nasu/nasu.html

あれそれこれ博覧会 稲毛記念館 千葉市
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/heiki/kojima/siga.html

稲毛記念館
http://www.cga.or.jp/004013/

<公爵の独り言>
最近まで残っていた貴重な戦前の船舶を、大した理由も無く一地方自治体の決定で解体してしまうことに理不尽さを感じます。

posted by 公爵 at 08:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 艦船 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

防波堤となった艦艇(3)

太平洋戦争中、鉄鋼資源の不足した大日本帝国は、何とコンクリート製の船舶を建造しました。とは言え、帝国海軍の戦闘艦艇ではなく、油槽船や貨物船などの輸送船です。そのコンクリート製貨物船が、大日本帝国敗戦後、防波堤として利用され、現在まで残っています。

今回は、2隻のコンクリート製被曳航油槽船をご紹介します。被曳航油槽船とは無人無動力で自ら航行する能力のない船で、他の船舶に曳航されて燃料を輸送する運搬する船のことです。

まず1隻目は、広島県安芸郡音戸町坪井の音戸漁港にあるコンクリート製被曳航油槽船。船名は不明のようです。昭和28年に防波堤として沈設された模様です。

ヨコハマ造船所技報 3.コンクリート製被曳航油槽船(その1)。
http://www.lares.dti.ne.jp/~obsidian/ysy/gihou/cons03.html

あれそれこれ博覧会 坪井漁港 広島/音戸
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/heiki9/tuboi/tuboi.html

2隻目は、山口県下松市笠戸島夕日岬付近の砂浜にあるコンクリート製被曳航油槽船。船名は不明のようです。なお、このコンクリート製被曳航油槽船は防波堤として設置されたものではないようで、どういう経緯でここにあるのかも不明であるようです(防波堤ではなく、ただの沈没船と言った感じです)。

ヨコハマ造船所技報 4.コンクリート製被曳航油槽船(その2)。
http://www.lares.dti.ne.jp/~obsidian/ysy/gihou/cons04.html

<公爵の独り言>
コンクリートで船を造るとは驚きですね!

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防波堤となった艦艇(2)

太平洋戦争中、鉄鋼資源の不足した大日本帝国は、何とコンクリート製の船舶を建造しました。とは言え、帝国海軍の戦闘艦艇ではなく、油槽船や貨物船などの輸送船です。そのコンクリート製貨物船が、大日本帝国敗戦後、防波堤として利用され、現在まで残っています。

そのコンクリート製貨物船の名は、「第一武智丸」と「第二武智丸」。この2隻のコンクリート製貨物船は太平洋戦争中、物資の輸送に従事しましたが、敗戦後、台風による波浪被害の大きい広島県豊田郡安浦町三津口の安浦漁港の防波堤として沈設されました。

2隻のコンクリート製貨物船の船体は、船尾を接するように沈設され、陸側が第一武智丸、沖側が第二武智丸であるそうです。この2隻のコンクリート製貨物船による防波堤も、通称「軍艦防波堤」と呼ばれているそうです。

私が出会った不思議な世界 軍艦防波堤
http://otokonohoukago.mond.jp/page098.html

GEO TOP コンクリート船「武智丸」日経新聞に掲載
http://www.geotop.co.jp/topics/take.html

ヨコハマ造船所技報 2.武智丸。
http://www.lares.dti.ne.jp/~obsidian/ysy/gihou/cons02.html

posted by 公爵 at 06:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 艦船 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

防波堤となった艦艇(1)

太平洋戦争敗戦後、防波堤となった帝国海軍艦艇があります。防波堤となったのは、帝国海軍駆逐艦「冬月」、「涼月」、「」の3隻です。これらの駆逐艦は終戦時に健在でしたが、戦勝国への賠償艦として引き渡すには状態が良くなかったため、昭和23年、福岡県北九州市若松区響町の洞海湾口に位置する若松港の港口に船体を沈設、防波堤とされました。

若松港は現在は埋め立てや護岸が進んでおりますが、この防波堤が出来る前は外海からの波浪を直接受け、港の傷みが進みやすい状態だったそうです。しかしこの防波堤が出来てからは外海からの波浪が消波され、港の維持が容易になったそうです。この防波堤は、通称「軍艦防波堤」と呼ばれているそうです。

なお、現在その船体を確認できるのは駆逐艦「」のみで、駆逐艦「冬月」、「涼月」はコンクリートに埋没しているそうです。帝国海軍駆逐艦としての生命を終えてなお、日本国民のために貢献した駆逐艦「冬月」、「涼月」、「」に敬礼!

戦捜録 軍艦防波堤
http://www1.linkclub.or.jp/~oya-wm/yanagifile/yanagi.html

来て見て若松 軍艦防波堤
http://www1.vis.ne.jp/~k1ro/gunkanbouhatei.htm

若松軍艦防波堤
http://www22.tok2.com/home2/maccha/gun2002.htm

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2006年09月22日

零戦の生産メーカー

大日本帝国海軍の傑作戦闘機「零式艦上戦闘機」(零戦)。この零戦を設計したのは三菱重工業であることは有名ですが、全ての零戦を三菱重工業が製造した訳ではありません。零戦の半分以上(3分の2)は、ライバル会社の中島飛行機で生産されています。

<零戦の生産数>
 三菱重工業:3,832機
 中島飛行機:6,800機

なお、中島飛行機は後の富士重工業(スバル)です。

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大和級戦艦の弱点

大和級戦艦(大和、武蔵)は、戦艦の主砲としては世界最大の46センチ砲を9門搭載した世界最強の戦艦です。しかし大和級戦艦には、決定的な弱点が存在します。それは「副砲」です。

戦艦に限らず海軍艦艇は一般的に、自分が搭載している主砲の砲弾が命中しても耐えられるように設計されています。ですから、46センチ砲を搭載する大和級戦艦は、46センチ砲で砲撃されても耐えられる装甲を施しています。しかし大和級戦艦の15.5センチ副砲は、大和級戦艦用に製造されたものではなく、最上級軽巡洋艦に搭載されていた15.5センチ主砲を転用したものでした。ですから大和級戦艦の15.5センチ副砲は、15.5センチ砲を搭載した軽巡洋艦の砲撃に耐えられる程度の装甲しか施されていなかったのです。

とは言え、大和級戦艦の46センチ砲の射程距離は、連合国海軍戦艦の41センチ砲の射程距離よりも長いので、戦艦の主砲がモノを言う艦隊決戦ではあまり気にしなくても良いことだったのかもしれません。

なお、15.5センチ主砲を大和級戦艦に譲り渡した最上級軽巡洋艦は代わりに20.3センチ主砲を搭載して、軽巡洋艦から重巡洋艦にアップグレードしております。

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戦艦武蔵はちょっと豪華?

戦艦大和は広島県呉市の呉海軍工廠で建造されましたが、戦艦武蔵は民間の三菱重工業長崎造船所で建造されました。三菱重工業長崎造船所はそれまで多くの豪華客船を建造して来た実績があり、そのため、戦艦武蔵は同型の戦艦大和よりも若干仕上げが良かったと言われております。

また戦艦武蔵は戦艦大和よりもやや遅れて建造を開始したので、戦艦大和建造中に判明した不具合を解消したり、旗艦設備を充実させたりと機能面も戦艦大和より向上していたそうです。

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2006年09月21日

口径

口径」とは正式には「口径長」と呼び、大砲の「砲身長」を意味します。大砲の砲身の長さが、大砲の口径の何倍であるかを示しているのです。例えば、戦艦長門の主砲は「45口径41センチ砲」ですので、戦艦長門の主砲の長さは

41センチ×45=1845センチ=18.45メートル

となります。一般的に、同一口径の大砲でも砲身長が長くなればその大砲の撃つ弾の初速が上がり、命中精度も高くなると言われております。

なお、銃における「n口径」とは、銃口の内径が「100分のnインチ」であることを意味しています。1インチはおよそ25.4ミリ(=2.54センチ)ですので、45口径は約11.4ミリです。

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五省

五省(ごせい)とは、大日本帝国海軍の士官養成学校であった海軍兵学校において、生徒がその日の行ないを反省するために自らへ発していた5つの問いかけのことです。考案者は当時兵学校校長であった松下元少将と言われております。五省は以下の通りです(括弧内はその意味)。
一、至誠(しせい)に悖(もと)るなかりしか
 (真心に反することはなかったか)

一、言行に恥づるなかりしか
 (言葉と行ないに恥ずかしいところはなかったか)

一、気力に欠くるなかりしか
 (気力に欠いてはいなかったか)

一、努力に憾(うら)みなかりしか
 (努力不足ではなかったか)

一、不精に亘(わた)るなかりしか
 (不精になってはいなかったか)
五省は、現在の海上自衛隊でも日々の行動を自省する標語として用いられているそうです。また、太平洋戦争後に日本を占領したアメリカ海軍の幹部が五省の精神に感銘を受けて、アナポリス海軍兵学校に英訳文を掲示しているそうです。

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2006年09月18日

八八艦隊計画

八八艦隊計画とは大日本帝国海軍が第一次世界大戦後に計画した建艦計画です。その内容は、戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を新規に建造し、それを基幹とした大艦隊を整備しようとするもので、多数の補助艦艇(重巡洋艦、軽巡洋艦、駆逐艦)の建造も計画されておりました。以下は八八艦隊計画で建造を計画された戦艦、巡洋戦艦の一覧です。

<戦艦>
長門級:2隻
・長門
・陸奥

加賀級:2隻
・加賀
・土佐

紀伊級:4隻
・紀伊
・尾張
・駿河
・近江

<巡洋戦艦>
天城級:4隻
・天城
・赤城
・高雄
・愛宕

13号艦級:4隻(艦名未決定)
・13号艦
・14号艦
・15号艦
・16号艦

全て完成すれば世界に冠たる大艦隊となる八八艦隊計画。しかしこの計画は途中で頓挫しました。大正10年〜大正11年(1921年〜1922年)のワシントン海軍軍縮会議によって、主力艦(戦艦、巡洋戦艦)の建造が制限されたためです。その結果、八八艦隊計画によって建造を計画された戦艦、巡洋戦艦は以下のような状態となりました。

<戦艦>
長門級:2隻
・長門(完成)
・陸奥(完成)

加賀級:2隻
・加賀(航空母艦として完成)
・土佐(進水後、標的艦として利用され海没処分)

紀伊級:4隻
・紀伊(建造中止)
・尾張(建造中止)
・駿河(建造中止)
・近江(建造中止)

<巡洋戦艦>
天城級:4隻
・天城(航空母艦に改装中、関東大震災にて大破し廃棄)
・赤城(航空母艦として完成)
・高雄(建造中止)
・愛宕(建造中止)

13号艦級:4隻(艦名未決定)
・13号艦(建造中止)
・14号艦(建造中止)
・15号艦(建造中止)
・16号艦(建造中止)

なお、もしこの建艦計画が実現した場合、建造に掛かる費用と維持に掛かる費用で国庫は財政破綻したであろうと言われております。ワシントン海軍軍縮会議によって救われた感じですね。

あと蛇足ですが、海上自衛隊は護衛艦8隻、対潜ヘリコプター8機(八艦八機)で1個護衛隊群を構成することから、この構成のことも「八八艦隊」とか「新・八八艦隊」と呼ぶことがあるそうです。

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船体の腐食防止

大日本帝国海軍に限った話ではないのですが、今回は艦船の船体腐食防止(錆止め)についてちょっとお話したいと思います。但し、細かく説明すると化学的な話になってしまうので、簡単に説明します。

艦船の船体は、掃海艇など特殊な艦艇を除いては「」で出来ています。鉄は海水に浸かっていると腐食します。艦船を長く使うためには、船体(鉄)の腐食を防止する必要があります。そこで利用されるのが「亜鉛」。亜鉛は鉄よりも腐食しやすい金属で、亜鉛と鉄をくっつけて海水に入れておくと、先に亜鉛が腐食し、鉄の腐食は進行しないのです。この性質を利用して、艦船の船底には「亜鉛ブロック」があちこちに取り付けられ、船体(鉄)の腐食を防いでいます。

なお、当然のことですが、船底の錆落としと腐食した亜鉛ブロックの交換、塗装の塗り替えは定期的に行う必要があります。莫大な費用をかけて建造した艦船を長持ちさせるためには、こうした平時の整備が大切なのです。

<公爵の独り言>
亜鉛様様ですね。

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陸奥鉄

戦艦陸奥は太平洋戦争中の昭和18年(1943年)6月8日、呉港沖柱島泊地において謎の爆発事故により沈没しました。世界の半分以上を相手にした戦争中に、帝国海軍の第一線の戦力である戦艦が、戦場ではなく国内の港で謎の爆沈。戦艦陸奥は、太平洋戦争の戦局に寄与することなく海に沈んでしまいました・・・。しかし戦艦陸奥は、その後思わぬ形で重宝されることになるのです。

戦艦陸奥は昭和45年(1970年)からサルベージされ、艦体の一部や遺品などが引き上げられていますが、その時注目されたのが戦艦陸奥の「鋼材」でした。鉄製品の豊富な現在において何故戦艦陸奥の鋼材が注目されたかと言うと、

戦艦陸奥の鋼材は放射性物質を含んでいないのです。

どう言う事かというと、戦後に作られた製鉄所の溶鉱炉は、内部の耐熱レンガに「コバルト60」と言う放射性物質が混ぜられているのです。そして「コバルト60」が発する放射線によって溶鉱炉の壁の厚さをモニターし、溶鉱炉の破損事故を防止しているそうです。しかしこの「コバルト60」は、溶鉱炉の中の鉄にも微量ながら混入してしまそうです。また戦後は「大気圏内核実験」が何度も行われているので地上には微量の放射性物質が存在する状態となっています。ですから現在の鉄製品には、ごく微量ながら放射性物質が含まれているのです。しかし戦艦陸奥は戦前に建造された鋼鉄製の戦艦。当然、戦前の溶鉱炉は「コバルト60」は使っていません。しかも戦艦陸奥は長い間海中に沈んでいたので、「大気圏内核実験」によって拡散した微量な放射性物質の影響もほとんど受けませんでした。この特徴に注目したのが「原子力産業」です。

元々自然界には微量な放射線が存在します。ある物質が出す微量な放射線を精密に測定するためには、自然界の発する微量な放射線を遮断しなければなりません。それには、放射性物質を含んでいない分厚い鉄材が必要です。そこで注目されたのが、放射性物質を含まない戦艦陸奥の鋼材だったのです。戦艦陸奥の鋼材は「陸奥鉄」と呼ばれ、ガイガーカウンターなどの放射線測定器の隔壁に利用され、重宝されているそうです。

<公爵の独り言>
横須賀の記念艦「三笠」の鋼材はどうなんでしょうね? それとか、日本近海の浅い海域に沈んでいる艦船を引き上げたら同じように使えませんかね? 「大和鉄」とか、「信濃鉄」とか。でも、墓標とも言うべき沈没艦をあまり軽々しく引き上げ/解体することはできませんね・・・。

posted by 公爵 at 06:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 艦船 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

リバーサイド公国開設!

この度、Amazon.co.jpアソシエイトにてインスタントストアと言うものを開設致しました。ストアの名前は「リバーサイド公国」です。

リバーサイド公国
http://astore.amazon.co.jp/theblogdomini-22

トップに表示される「公爵おすすめの逸品!」は定期的に更新するので、興味のある方はご覧下さい。また、「公爵おすすめの逸品!」から、私の興味ある分野や嗜好を類推してみるのも面白いかもしれません。

なお、この「リバーサイド公国」は諸事情により予告無く閉鎖する可能性があります。あらかじめご了承下さい。今後とも宜しくお願い致します。
posted by 公爵 at 04:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 公国統治情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月17日

ドラマ「僕たちの戦争」

先ほど、人間魚雷「回天」の特攻隊員を描いたドラマがTBSで放送されていました。テレビを見ていて気付き、思わず最後まで見てしまいました。

TBS スペシャルドラマ「僕たちの戦争」
http://www.tbs.co.jp/boku-sensou/

現代の自由を謳歌する青年と、太平洋戦争中の海軍飛行兵(後に回天特別攻撃隊隊員となる)が事故によってタイムスリップして入れ替わるという内容です。ちょっと気になるラストシーンですが、なかなか面白かったと思います。

折りしも、昨日9月16日土曜日から、人間魚雷「回天」とそれを取り巻く人々を描いた映画「出口のない海」が松竹映画系でロードショーされています。

出口のない海
http://www.deguchi-movie.jp/

当時の人々がどんな思いで回天に搭乗したか、考えてみる良い機会だと思います。最後に、有名な「回天特別攻撃隊」のフラッシュをご紹介します。是非ご覧下さい。

回天特別攻撃隊(フラッシュ)
http://tokyo.cool.ne.jp/kaiten_website/kaiten.swf

<公爵の独り言>
ここ数年、タイムスリップして入れ替わるという設定の戦争映画が多いですね。

posted by 公爵 at 23:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画・ドラマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月16日

陸奥爆沈!

かつて「ビッグセブン」、「世界七大戦艦」と呼ばれ、連合艦隊旗艦になったり、天皇陛下が座上する御召し艦にもなった長門級戦艦陸奥。就役前、ワシントン海軍軍縮会議によって危うく廃艦されそうになりながらも、就役後は栄光の道を進んできました。しかしその最期は実にあっけなく、謎に満ちたものでした・・・。

戦艦陸奥は太平洋戦争中の昭和18年(1943年)6月8日12時10分頃(昼間)、呉港沖柱島泊地にて停泊中に突然三番砲塔付近から煙が噴き上がって爆発、一瞬のうちに艦体は切断されて乗員1121名と共に沈没してしまったのです。

戦艦陸奥の爆発事故直後に査問委員会が編成され、事故原因の調査が行われましたが、検討の結果、自然発火とは考えにくく、人為的な爆発である可能性が高い(この説を採る場合にも、行為者や動機などの詳細は不明)とされたが、真相は未だに明確になっていないそうです。

世界の半分以上を相手にした戦争中に、帝国海軍の第一線の戦力である戦艦が、戦場ではなく国内の港で謎の爆沈。実に不可解な事故です。戦艦陸奥はその誕生から最期まで幸薄い戦艦だったと言えるかもしれません・・・。

ところで、爆沈した戦艦陸奥は一部がサルベージされ、引き揚げられた艦体の一部や乗員の遺品などが山口県大島郡周防大島町の「陸奥記念館」に展示されているそうです。また、戦艦陸奥の主砲(砲身のみ)が、東京お台場にある「船の科学館」の屋外展示場に展示されております。

陸奥記念館
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/heiki3/mutu/mutu.html
http://www17.ocn.ne.jp/~senshi/mutsukinenkan.html

船の科学館
http://www.funenokagakukan.or.jp/

あと蛇足ですが、現在、以下の画像掲示板サイトにて長門級戦艦(長門、陸奥)の画像を公開しております。興味のある方はご覧下さい。コメントや、関連画像のアップも大歓迎です。

フォトランド公国
http://i-bbs.sijex.net/imageBoard.jsp?id=duke

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ビッグセブン

ビッグセブン(ビッグ7)とは、1921年〜1922年(大正10年〜大正11年)のワシントン海軍軍縮会議によって主力艦(戦艦、巡洋戦艦)の建造が制限されたネイヴァルホリデー(海軍休日)における世界七大戦艦のことを指します。ビッグセブンと呼ばれた戦艦は以下の通り。

<大日本帝国>
長門級戦艦2隻
・長門
・陸奥

<イギリス>
ネルソン級戦艦2隻
・ネルソン
・ロドネイ

<アメリカ>
コロラド級戦艦3隻
・コロラド
・メリーランド
・ウェストバージニア

これらの戦艦は、いずれも当時世界最大であった口径41センチ(16インチ)の主砲を搭載しておりました。当時は戦艦が国力の象徴とされていた時代だったので、これらの戦艦は現代の戦略ミサイル原子力潜水艦に匹敵する存在であったと言っても過言ではないでしょう。これらビッグセブンと呼ばれた世界七大戦艦は、第一次世界大戦後から第二次世界大戦前までの間、抑止力を持った戦略兵器として世界に君臨しました。

ところで、この「ビッグセブン」は、すんなりと決まったわけではありませんでした。ワシントン海軍軍縮会議においては、建造中の主力艦は廃艦することが決定されておりましたが、当時41センチ(16インチ)主砲を搭載し、完成していた戦艦は、

<大日本帝国>
長門級戦艦
・長門

<アメリカ>
コロラド級戦艦
・メリーランド

の2隻だけでした(これで終わっていればビッグツーだったわけです)。大日本帝国は長門の姉妹艦である陸奥の工事を急がせていましたが、結局ワシントン海軍軍縮会議の時はまだ未完成の状態でした。このままでは陸奥は廃艦となってしまいます。しかし何としても陸奥を就役させたい大日本帝国は、ワシントン海軍軍縮会議において

陸奥は完成している!

と主張しました。しかしそんな主張がそのままイギリスやアメリカに認められる訳がありません。大揉めに揉めて、結局、陸奥の建造を認める代わりに、イギリス2隻(ネルソン級)、アメリカ2隻(コロラド級)の41センチ(16インチ)主砲搭載戦艦建造を認めることで各国が妥協し、ビッグセブンが誕生したのです。

ビッグセブンと呼ばれた戦艦の2隻、大日本帝国海軍の長門、陸奥は、長い間連合艦隊旗艦を交代で務め、広く国民に親しまれました。なお、現在でこそ帝国海軍の戦艦と言えば大和や武蔵が有名ですが、大和や武蔵は秘密裏に建造し、活躍した期間も太平洋戦争中だけだったので一般国民はその存在を知らない人が多く、終戦までは圧倒的に長門、陸奥の知名度の方が高かったそうです。

現在、以下の画像掲示板サイトにて長門級戦艦の画像を公開しております。興味のある方はご覧下さい。コメントや、関連画像のアップも大歓迎です。

フォトランド公国
http://i-bbs.sijex.net/imageBoard.jsp?id=duke

<公爵の独り言>
それにしても陸奥はその誕生から最期まで幸薄い戦艦ですね・・・。

posted by 公爵 at 22:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 艦船 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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