2006年11月15日

特攻機の命中率

旧帝国陸海軍が太平洋戦争末期に行った航空機による体当たり攻撃(所謂「特攻」)の命中率が、米国立公文書館に保管されている米軍機密資料で明らかになったそうです。

Yahoo!ニュース −時事通信− 11月15日7時1分
旧日本軍の航空特攻作戦、命中効果率は56%=予想以上の戦果
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061114-00000162-jij-int
 太平洋戦争末期、劣勢の旧日本軍が多用した航空機の体当たりによる米艦への特攻作戦で、米軍が至近自爆を含む特攻機の命中効果率を半年間で56%と算定し、日本側推定を大幅に上回っていたことが、米国立公文書館に保管されている米軍機密資料で分かった。日本側は特攻初期のフィリピン海域での特攻命中率を26〜28%と推定していた。
 戦史家の原勝洋氏が入手したこの資料は、未公開分を含む米側撮影の特攻写真340枚とともに、15日発売の「写真が語る『特攻』伝説」(原勝洋著、KKベストセラーズ社)で公表される。
命中率56%・・・。これはかなりの脅威ですね。米軍が特攻機を恐れるわけです。特攻により命を失った日米双方の将兵のご冥福をお祈り致します。

posted by 公爵 at 10:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 航空機 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月24日

海兵と陸士

大日本帝国海軍における士官養成学校は「海軍兵学校」(略称:海兵)と言います。これに対して、大日本帝国陸軍における士官養成学校は「陸軍士官学校」(略称:陸士)と言います。海軍と陸軍では微妙に用語が違うので注意が必要です。

なお、将官を養成する高等教育機関は、帝国海軍では「海軍大学校」(通称:海軍大学、略称:海大)、帝国陸軍では「陸軍大学校」(通称:陸軍大学、略称:陸大)と言います。これは海軍も陸軍も同じ感じですね。

<公爵の独り言>
帝国海軍の将官はほとんど海大卒ですが、特攻の生みの親として有名な大西瀧治郎海軍中将や、キスカ島撤退作戦で有名な木村昌福海軍中将は、海大を卒業せずに将官になっています。

posted by 公爵 at 18:46| Comment(2) | TrackBack(0) | 用語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

提督と将軍

大日本帝国海軍に限った話ではありませんが、海軍においては少将(または准将)以上の将官を総称して「提督」(英語名:Admiral)と呼びます。一方、海軍以外の陸軍や空軍においては、同様の将官のことを「将軍」(英語名:General)と呼びます。海軍と陸軍では微妙に用語が違うので注意が必要です。

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海軍士官と陸軍将校

大日本帝国海軍においては、少尉候補生以上の階級を総称して「海軍士官」、「士官」と呼んでおりました。一方、大日本帝国陸軍においては、少尉以上の階級を総称して「陸軍将校」、「将校」と呼んでおりました。ですから、逆の呼び方である「海軍将校」、「陸軍士官」と言う呼び方はあまりしなかったようです。海軍と陸軍では微妙に用語が違うので注意が必要です。

posted by 公爵 at 11:05| Comment(14) | TrackBack(0) | 用語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

提督の決断Wの最長継戦期間

コーエーの戦略・海戦ゲーム「提督の決断W」。このゲームが、ゲーム内の日付で最長いつまでプレイできるか試してみました。このプレイで用いたのは、1939年9月からスタートするキャンペーンゲーム「狼群作戦」。私は枢軸軍(大日本帝国、ドイツ第三帝国)の大日本帝国でプレイし、連合軍(大英帝国、アメリカ合衆国)を圧倒。しかし連合軍が降伏してしまわないように、連合軍の拠点数ヶ所をわざと残して戦争を継続してみました。

1950年(昭和25年)・・・太平洋戦争継戦中!
1960年(昭和35年)・・・太平洋戦争継戦中!!
1970年(昭和45年)・・・太平洋戦争継戦中!!!
1980年(昭和55年)・・・太平洋戦争継戦中!!!!
1990年(平成02年)・・・太平洋戦争継戦中!!!!!
1999年(平成11年)・・・太平洋戦争継戦中!!!!!!

一体いつまでプレイできるのかと思っていたところ、1999年12月第4週まで枢軸軍と連合軍の決着が付かないと、2000年1月1日に停戦協定を結んで終了してしまうことが分かりました。最長60年3ヶ月の戦争・・・。現代ではありえない超長期戦ですね。

なお、60年近く戦争を続けても、提督が病気や老衰で死亡したり、艦船や航空機が老朽化して廃棄されたりはしません(笑)。あとちょっと古い話ですが、初代「提督の決断」の頃は、艦船に提督を座上させたまま「艦船処分」を行うと、何故か提督が死亡することがありました。艦と運命を共にしたのでしょうか? また、艦齢が高くなると、突然の事故による喪失や、戦闘中の喪失の頻度が高くなったような気がします。

posted by 公爵 at 10:22| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

最近まで残っていた海防艦

海防艦とは軍艦の一種で、近海・沿岸の防備、領海警備、漁業警備、船団の護衛など主要な任務とする艦のことです。帝国海軍における海防艦は2種類あります。一つ目は明治時代に建造された旧式艦(巡洋艦や戦艦など)を海防艦に種別変更したもの。二つ目は昭和12年以降に建造された漁業保護や船団護衛を目的とした小型艦。通常、海防艦と言うと、後者の方を指します。

ところで、帝国海軍の海防艦がつい最近まで残っていたことをご存知でしょうか? その海防艦の名は「志賀」。昭和19年(1944年)から昭和20年(1945年)にかけて20隻建造された鵜来級海防艦の1艦です。

鵜来級海防艦要目
基準排水量:940トン
全長:78.8メートル
全幅:9.1メートル
喫水:3.0メートル
エンジン:22号10型ディーゼルエンジン2基2軸
馬力:4,000馬力
速力:19.5ノット
航続距離:16ノットで5,000海里
兵装:45口径12センチ高角砲 連装1基・単装1基、25mm三連装機銃2基、九四式爆雷投射機2基、三式爆雷投射機16基、爆雷投下軌条2基、爆雷120個など。
海防艦志賀は太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)3月20日に竣工しました。そして呉防備戦隊に編入され、4月6日の戦艦大和沖縄出撃時、豊後水道南部で敵潜水艦を捕捉し、爆雷投射でこれを撃沈すると言う戦果を上げております。そして同年5月始めに舞鶴で改装され、対馬海峡の対潜哨戒・機雷処理に従事しているた7月31日、壱岐半城浦において来襲した敵戦闘機P51を2機撃墜するという戦果を上げております。海防艦志賀はなかなかの武勲艦だったと言えます。海防艦志賀はその後も哨戒任務に従事し、敗戦を迎えました。

敗戦後の海防艦志賀は、数奇な運命を辿ることになります。昭和21年(1946年)から昭和24年(1949年)まで米軍連絡船として利用され、博多・釜山間を就航しました。その後昭和25年(1950年)から昭和28年(1953年)までは中央気象台定点観測船「志賀丸」として就航。昭和29年(1954年)1月からは海上保安庁の練習艦「こじま」として、海外在留邦人の引き上げ輸送等に従事しました。そして昭和40年(1965年)4月、とうとう廃役となったのです。

さて、海防艦志賀はこうして20年に渡る船舶としての生命を終えたのですが、今度は何と公民館として利用されることになりました。海防艦志賀(練習艦こじま)は昭和40年(1965年)8月に千葉市に払い下げられ、昭和41年(1966年)8月18日に「海洋公民館」として生まれ変わったのです。海洋公民館となった海防艦志賀(練習艦こじま)は、当初岸壁に係留された状態で公開されていたのですが、後に船体の周囲は埋め立てられ、団地の中の公民館施設として利用されました。

こうして静かな余生を送ってきた海防艦志賀(練習艦こじま)ですが、今度は一転、解体の危機を迎えます。海防艦志賀(練習艦こじま)は老朽化の為、既に海洋公民館としての利用を終了していたのですが、地域開発の一環として、解体されることとなったのです。しかし残存する唯一の旧海軍戦闘艦艇の経歴を持つことから保存運動が持ち上がったそうですが、結局保存されること無く、平成10年(1998年)に解体されてしまいました。

なお、海防艦志賀(練習艦こじま)の艦橋内の機器の一部が千葉県の稲毛記念館に艦橋を模して展示されているほか、艦首部分は、栃木県の那須戦争博物館に展示されているそうです。

海防艦志賀
http://www.ne.jp/asahi/mili/surva/ivent/koz/kozbun.html

海とKISSと太陽と 鵜来(改乙)型
http://www.down.ne.jp/ish/ijn/axhist/ukuru.html

海防艦「志賀」保存問題
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Study/Study077.html

「こじま」解体開始
http://www2.famille.ne.jp/~kurimata/hozon4.html

とんぺいの機械博物館 那須戦争博物館(那須高原)
http://homepage3.nifty.com/tompei/WarMuseumNasu.htm

あれそれこれ博覧会 戦争博物館 栃木/那須
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/heiki2/nasu/nasu.html

あれそれこれ博覧会 稲毛記念館 千葉市
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/heiki/kojima/siga.html

稲毛記念館
http://www.cga.or.jp/004013/

<公爵の独り言>
最近まで残っていた貴重な戦前の船舶を、大した理由も無く一地方自治体の決定で解体してしまうことに理不尽さを感じます。

posted by 公爵 at 08:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 艦船 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

防波堤となった艦艇(3)

太平洋戦争中、鉄鋼資源の不足した大日本帝国は、何とコンクリート製の船舶を建造しました。とは言え、帝国海軍の戦闘艦艇ではなく、油槽船や貨物船などの輸送船です。そのコンクリート製貨物船が、大日本帝国敗戦後、防波堤として利用され、現在まで残っています。

今回は、2隻のコンクリート製被曳航油槽船をご紹介します。被曳航油槽船とは無人無動力で自ら航行する能力のない船で、他の船舶に曳航されて燃料を輸送する運搬する船のことです。

まず1隻目は、広島県安芸郡音戸町坪井の音戸漁港にあるコンクリート製被曳航油槽船。船名は不明のようです。昭和28年に防波堤として沈設された模様です。

ヨコハマ造船所技報 3.コンクリート製被曳航油槽船(その1)。
http://www.lares.dti.ne.jp/~obsidian/ysy/gihou/cons03.html

あれそれこれ博覧会 坪井漁港 広島/音戸
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/heiki9/tuboi/tuboi.html

2隻目は、山口県下松市笠戸島夕日岬付近の砂浜にあるコンクリート製被曳航油槽船。船名は不明のようです。なお、このコンクリート製被曳航油槽船は防波堤として設置されたものではないようで、どういう経緯でここにあるのかも不明であるようです(防波堤ではなく、ただの沈没船と言った感じです)。

ヨコハマ造船所技報 4.コンクリート製被曳航油槽船(その2)。
http://www.lares.dti.ne.jp/~obsidian/ysy/gihou/cons04.html

<公爵の独り言>
コンクリートで船を造るとは驚きですね!

posted by 公爵 at 07:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 艦船 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

防波堤となった艦艇(2)

太平洋戦争中、鉄鋼資源の不足した大日本帝国は、何とコンクリート製の船舶を建造しました。とは言え、帝国海軍の戦闘艦艇ではなく、油槽船や貨物船などの輸送船です。そのコンクリート製貨物船が、大日本帝国敗戦後、防波堤として利用され、現在まで残っています。

そのコンクリート製貨物船の名は、「第一武智丸」と「第二武智丸」。この2隻のコンクリート製貨物船は太平洋戦争中、物資の輸送に従事しましたが、敗戦後、台風による波浪被害の大きい広島県豊田郡安浦町三津口の安浦漁港の防波堤として沈設されました。

2隻のコンクリート製貨物船の船体は、船尾を接するように沈設され、陸側が第一武智丸、沖側が第二武智丸であるそうです。この2隻のコンクリート製貨物船による防波堤も、通称「軍艦防波堤」と呼ばれているそうです。

私が出会った不思議な世界 軍艦防波堤
http://otokonohoukago.mond.jp/page098.html

GEO TOP コンクリート船「武智丸」日経新聞に掲載
http://www.geotop.co.jp/topics/take.html

ヨコハマ造船所技報 2.武智丸。
http://www.lares.dti.ne.jp/~obsidian/ysy/gihou/cons02.html

posted by 公爵 at 06:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 艦船 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

防波堤となった艦艇(1)

太平洋戦争敗戦後、防波堤となった帝国海軍艦艇があります。防波堤となったのは、帝国海軍駆逐艦「冬月」、「涼月」、「」の3隻です。これらの駆逐艦は終戦時に健在でしたが、戦勝国への賠償艦として引き渡すには状態が良くなかったため、昭和23年、福岡県北九州市若松区響町の洞海湾口に位置する若松港の港口に船体を沈設、防波堤とされました。

若松港は現在は埋め立てや護岸が進んでおりますが、この防波堤が出来る前は外海からの波浪を直接受け、港の傷みが進みやすい状態だったそうです。しかしこの防波堤が出来てからは外海からの波浪が消波され、港の維持が容易になったそうです。この防波堤は、通称「軍艦防波堤」と呼ばれているそうです。

なお、現在その船体を確認できるのは駆逐艦「」のみで、駆逐艦「冬月」、「涼月」はコンクリートに埋没しているそうです。帝国海軍駆逐艦としての生命を終えてなお、日本国民のために貢献した駆逐艦「冬月」、「涼月」、「」に敬礼!

戦捜録 軍艦防波堤
http://www1.linkclub.or.jp/~oya-wm/yanagifile/yanagi.html

来て見て若松 軍艦防波堤
http://www1.vis.ne.jp/~k1ro/gunkanbouhatei.htm

若松軍艦防波堤
http://www22.tok2.com/home2/maccha/gun2002.htm

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2006年09月22日

零戦の生産メーカー

大日本帝国海軍の傑作戦闘機「零式艦上戦闘機」(零戦)。この零戦を設計したのは三菱重工業であることは有名ですが、全ての零戦を三菱重工業が製造した訳ではありません。零戦の半分以上(3分の2)は、ライバル会社の中島飛行機で生産されています。

<零戦の生産数>
 三菱重工業:3,832機
 中島飛行機:6,800機

なお、中島飛行機は後の富士重工業(スバル)です。

posted by 公爵 at 20:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 航空機 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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