2006年09月16日

ビッグセブン

ビッグセブン(ビッグ7)とは、1921年〜1922年(大正10年〜大正11年)のワシントン海軍軍縮会議によって主力艦(戦艦、巡洋戦艦)の建造が制限されたネイヴァルホリデー(海軍休日)における世界七大戦艦のことを指します。ビッグセブンと呼ばれた戦艦は以下の通り。

<大日本帝国>
長門級戦艦2隻
・長門
・陸奥

<イギリス>
ネルソン級戦艦2隻
・ネルソン
・ロドネイ

<アメリカ>
コロラド級戦艦3隻
・コロラド
・メリーランド
・ウェストバージニア

これらの戦艦は、いずれも当時世界最大であった口径41センチ(16インチ)の主砲を搭載しておりました。当時は戦艦が国力の象徴とされていた時代だったので、これらの戦艦は現代の戦略ミサイル原子力潜水艦に匹敵する存在であったと言っても過言ではないでしょう。これらビッグセブンと呼ばれた世界七大戦艦は、第一次世界大戦後から第二次世界大戦前までの間、抑止力を持った戦略兵器として世界に君臨しました。

ところで、この「ビッグセブン」は、すんなりと決まったわけではありませんでした。ワシントン海軍軍縮会議においては、建造中の主力艦は廃艦することが決定されておりましたが、当時41センチ(16インチ)主砲を搭載し、完成していた戦艦は、

<大日本帝国>
長門級戦艦
・長門

<アメリカ>
コロラド級戦艦
・メリーランド

の2隻だけでした(これで終わっていればビッグツーだったわけです)。大日本帝国は長門の姉妹艦である陸奥の工事を急がせていましたが、結局ワシントン海軍軍縮会議の時はまだ未完成の状態でした。このままでは陸奥は廃艦となってしまいます。しかし何としても陸奥を就役させたい大日本帝国は、ワシントン海軍軍縮会議において

陸奥は完成している!

と主張しました。しかしそんな主張がそのままイギリスやアメリカに認められる訳がありません。大揉めに揉めて、結局、陸奥の建造を認める代わりに、イギリス2隻(ネルソン級)、アメリカ2隻(コロラド級)の41センチ(16インチ)主砲搭載戦艦建造を認めることで各国が妥協し、ビッグセブンが誕生したのです。

ビッグセブンと呼ばれた戦艦の2隻、大日本帝国海軍の長門、陸奥は、長い間連合艦隊旗艦を交代で務め、広く国民に親しまれました。なお、現在でこそ帝国海軍の戦艦と言えば大和や武蔵が有名ですが、大和や武蔵は秘密裏に建造し、活躍した期間も太平洋戦争中だけだったので一般国民はその存在を知らない人が多く、終戦までは圧倒的に長門、陸奥の知名度の方が高かったそうです。

現在、以下の画像掲示板サイトにて長門級戦艦の画像を公開しております。興味のある方はご覧下さい。コメントや、関連画像のアップも大歓迎です。

フォトランド公国
http://i-bbs.sijex.net/imageBoard.jsp?id=duke

<公爵の独り言>
それにしても陸奥はその誕生から最期まで幸薄い戦艦ですね・・・。

posted by 公爵 at 22:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 艦船 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

渡洋爆撃

渡洋爆撃とは、文字通り海を越えて敵国を爆撃することです。

第一次世界大戦においてドイツ帝国がツェッペリン飛行船でイギリス空襲をしたり、第二次世界大戦においてナチス・ドイツ(第三帝国)が爆撃機と戦闘機、V2飛行爆弾(ミサイルのようなもの)を使ってイギリス空襲をしています。しかしドーバー海峡(イギリスとヨーロッパ大陸間の海峡)は最狭部34kmと非常に狭い海峡であるため、現在これのことを渡洋爆撃と呼ぶ人はあまりいないと思います。

一般的に渡洋爆撃とは、日中戦争(北支事変、支那事変、日華事変)において大日本帝国海軍が中国(中華民国:蒋介石政権)の都市部に対して行った長距離爆撃のことを指します。大日本帝国海軍航空隊は多数の陸上攻撃機(九六式陸上攻撃機、一式陸上攻撃機)を使い、日本本土(九州)の航空基地から東シナ海を越えて中国の都市を爆撃しました。九州から中国沿岸まではおよそ1,000km。このような長距離爆撃は世界初のことで、全世界の注目を浴びたそうです。なお、日本が中国沿岸部を占領し、そこに航空基地を設置してからは、日本本土からの渡洋爆撃は行われなくなりました。

ついでなので、中国沿岸部に移動してからの帝国海軍航空隊の活躍についてちょっと言及しておきます。帝国海軍航空隊は、その後も中国の蒋介石政権の息の根を止めるべく南京や重慶などに爆撃を行っていました。この頃、航空隊の司令をしていたのが、有名な山口多門提督や大西瀧治郎提督です。勇壮果敢な航空攻撃は、当初は赫赫たる戦果を上げていました。しかし英米の支援を受けた中国の迎撃戦闘機が活躍するようになってくると、防御性能が劣る九六式陸上攻撃機、一式陸上攻撃機は次第に被害を受けるようになってきました。また、当時帝国海軍で使われていた戦闘機は九六式艦上戦闘機でしたが、陸上攻撃機に随伴するには航続距離が足りなかったので、敵戦闘機の攻撃から陸上攻撃機を護ることが出来ませんでした。この問題の解決のために開発が急ピッチで進められたのが零式艦上戦闘機(いわゆる零戦)です。後に零式艦上戦闘機は護衛戦闘機として陸上攻撃機に随伴し、敵戦闘機を圧倒的な優位で制圧、中国で初陣を飾りました。

なお、帝国海軍で言う「陸上攻撃機」(通称:陸攻)とは、「陸上を攻撃する航空機」ではなく、「陸上基地で運用する攻撃機」を意味します。そして帝国海軍で言う「攻撃機」とは「艦船に対する魚雷攻撃と水平爆撃が可能な航空機」を意味します。ですから、航空母艦で運用する攻撃機は「艦上攻撃機」(通称:艦攻)と言います。また、帝国海軍で言う「爆撃機」とは、「急降下爆撃が可能な航空機」を意味します。これも同じく、陸上基地で運用する爆撃機は「陸上爆撃機」、航空母艦で運用する爆撃機は「艦上爆撃機」(通称:艦爆)と言います。

posted by 公爵 at 19:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 航空機 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月12日

人の嫌がる軍隊に・・・

軍隊に志願することについて、昔から言い習わされた有名な言葉があります。

人の嫌がる軍隊に、志願してくる馬鹿もある。

ある意味言い得て妙かもしれませんね。ところで、大日本帝国時代は兵役は男子国民の義務でした。ですから、いつかは兵役に就かなければなりません(もちろん徴兵検査に合格したらの話ですが)。しかも現在のように遺産の均分相続や職業選択の自由もあまり無い時代。故に、遺産相続が期待できない二男、三男が軍隊で一旗上げようと志願兵となるケースが多かったそうです。

<公爵の独り言>
下士官クラスになるまでが大変ですね。

posted by 公爵 at 09:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 標語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

士官商売・・・

大日本帝国海軍の士官、下士官、兵を揶揄するこんな言葉があります。

士官商売、下士官道楽、兵こそ誠の忠義者

文字通り、士官は海軍兵学校を出た職業軍人で俸給も高い。下士官は、その多くが志願兵で、海軍在籍年数が長い古参兵。故に、班内でも一目置かれ、新兵時代のように重労働や罰直(シゴキ)がなく、優遇される気楽な立場。結局、下士官になる前の兵卒、特に徴兵された兵卒が一番悪条件で働かされていると言うことですね。

<公爵の独り言>
軍隊はいつの時代も上に厚く下に薄いのが特徴ですね。

posted by 公爵 at 09:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 標語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

下士官兵とは・・・


大日本帝国海軍では昔から下士官兵が自分達を揶揄する語呂の良い名文句が言い伝えられていました。その名文句は以下の通り。
下士官兵とは、概ね農漁村の二男、三男にして、辛うじて新聞を読み得る程度の常識を備え、平時に在りては重量物の運搬に適し、戦時に在りては士官の弾除けとなる。夜ともなれば、六尺のケンバスを空中高く吊り上げ、芋虫の如く安眠を貪る動物なり。これに麦飯を与えれば、嬉々として貪り喰らい、たまたま祭日ともなりて銀飯を与えんか、君が代を合唱し、万歳を三唱して、五勺の酒に陶然となり、放歌高吟尽くるを知らず。これを艦外に放てば、異性を見れば奇声を発し、敢えてこれに危害を加える恐れ在り、よって長官これを憂い、上陸を四分の一に定む。
ちょっと酷い言われようですね。でも、大日本帝国海軍はその下士官兵がもっとも優秀だった言われているのですから皮肉なものです。

<公爵の独り言>
「標語」カテゴリに入れましたが、標語と言うにはちょっと長すぎですね。

posted by 公爵 at 08:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 標語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月18日

大日本帝国海軍艦艇画像公開中!

現在、我が「ネイヴァルランド公国」と同君連合を組んでいる画像掲示板サイト「フォトランド公国」にて、大日本帝国海軍艦艇の画像を多数公開しております。

フォトランド公国
http://i-bbs.sijex.net/imageBoard.jsp?id=duke

現在は大和級戦艦の画像を公開しておりますが、他の艦艇の画像も公開する予定です。ところで、画像をご覧になる皆様にお願いがあります。公開している画像は私がインターネット上で手に入れたものなので、正確な艦名や、何時、何処で、どのような状況で撮影されたのか不明なものがほとんどです。画像をご覧になった方で、画像の詳細情報をご存じの方がいらっしゃいましたら、是非コメントを頂けると嬉しく思います。

あと、公開している画像は先程書いたように私がインターネット上で手に入れたものなので、著作権に抵触している可能性が御座います。もし問題がありましたら、画像掲示板の記事またはこのこの記事へコメントして下さるか、メールでお知らせ下さい。また、匿名でメールを送りたい場合は、以下のURLをクリックするとメール送信CGIが起動し、メールソフト無しで匿名メールを送信することが出来ます。

サウスアイランド公国 直訴メール送信
http://www.h3.dion.ne.jp/~duke/mail.html

以上、宜しくお願い致します。
posted by 公爵 at 04:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 公国統治情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月15日

人間魚雷「回天」

昨日、人間魚雷「回天」を扱った映画「出口のない海」を紹介しましたが、以下のサイトにて人間魚雷「回天」のフラッシュを見ることが出来ます。よかったらご覧下さい。ハンカチを用意した方が良いかも知れません。

回天特別攻撃隊
http://tokyo.cool.ne.jp/kaiten_website/kaiten.swf

posted by 公爵 at 00:02| Comment(0) | TrackBack(1) | 艦船 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月14日

映画「出口のない海」

太平洋戦争末期、大日本帝国海軍は通常の攻撃方法では連合国軍にまともな反撃が出来ない状態となりました。そこで始められたのが、連合国艦船への体当たり攻撃、俗に言う「特攻」です。

特攻と言うと、爆弾を装備した零戦(爆装零戦)による体当たり攻撃など、航空機による体当たり攻撃がすぐに思い浮かぶと思いますが、特攻にも様々な種類がありました。なかでも連合国軍に最も恐れられた特攻のひとつが、人間魚雷「回天」による特攻です。

人間魚雷「回天」とは、先端に魚雷の弾頭を装着した小型潜水艇のことです。この小型潜水艇は、母艦となる大型潜水艦で敵艦の停泊地近くまでを運ばれ、大型潜水艦から切り離された後は、人間がこの小型潜水艇を操縦して、敵艦に体当たりするのです。この小型潜水艇「回天」の威力は強力で、一基で戦艦すら撃沈することが可能と言われておりました。この人間魚雷「回天」は1944年11月8日に菊水隊として、初出撃して以降1945年8月まで28隊(潜水艦32隻、回天148基 途中帰投含む)の出撃が行われました。

この人間魚雷「回天」とそれを取り巻く人々を描いた映画が、松竹映画系で9月16日土曜日からロードショーされます。

出口のない海
http://www.deguchi-movie.jp/

<主なキャスト>
・市川海老蔵
・伊勢谷友介
・上野樹里
・塩谷瞬
・柏原収史
・伊崎充則
・黒田勇樹
・平山広行
・尾高杏奈
・永島敏行
・田中実
・高橋和也
・平泉成
・香川照之
・古手川祐子
・三浦友和

沢山の人々から「帽振れ」で見送られ、華々しく出撃した航空特攻とは違い、回天による特攻は潜水艦搭乗員しか見送りのいない地味な特攻でした。それ故、そのような特攻があったこと自体知らない日本人も多いのではないかと思います。是非この映画を観て、「回天」の存在とそれを操縦した若者達の気持ちを知って欲しいと思います。

なお、米海軍の公式情報によると、人間魚雷「回天」による被害艦艇はなかったとされておりますが、実際には多くの命中目撃証言があります。また、日本の降伏後、米軍が真っ先に命令したのが、回天搭載潜水艦の現在位置の確認と作戦中止だったと言われております。

posted by 公爵 at 18:52| Comment(0) | TrackBack(2) | 映画・ドラマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月13日

今も日本人を護る英霊達

インターネット上の掲示板サイト「2ちゃんねる」。ここに時々投稿される帝国海軍関係のエピソードを紹介します(改行等は読みやすくするために多少手を加えております)。
2−3年前の今頃の読売新聞・朝刊の国際面の片隅に掲載された怪事件。

南シナ海で海賊船団に襲撃されていた大型貨物船の船員がみた怪奇談。全速推進蛇行運転で逃げ切ろうとする貨物船。自動小銃や機銃を発砲しながら追いすがる海賊船団。そこにいきなりフッと現れた、太平洋戦争時から抜け出してきたような日本帝国海軍旗をつけた、駆逐艦(?)。予期せぬ重武装軍艦の出現に海賊船団は恐慌を来たして逃げ去った。貨物船が危機を脱したのを見届けた日本帝国海軍(?)幽霊駆逐艦(?)は現れたときと同じように忽然と姿を消したそうだ。
太平洋戦争中、米英を中心とする連合国軍は日本の補給路を断つために日本の輸送船を襲撃しました。これに対し、日本は制空権を失っていたために輸送船の護衛が出来ず、多くの輸送船と護衛の艦艇(駆逐艦や海防艦)が日本に辿り着くことなく撃沈されました。今回紹介した一件、英霊達がかつて出来なかった船舶護衛を今でもやっているように思えてなりません・・・。

posted by 公爵 at 01:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 2chコピペ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月10日

麦飯

大日本帝国海軍における食事は基本的に麦飯でした。麦にはビタミンB1が多く含まれております。ビタミンB1が不足すると、「脚気」という病気になります。脚気は、ビタミンB1欠乏によって発生する病気で、最悪死に至ります。大日本帝国海軍ではこの脚気を予防するために麦飯を導入したのですが、それまでには様々な試行錯誤がありました。

明治時代、草創期の大日本帝国海軍の食事は白米で、肉食もあまり多くありませんでした。そのため、約3割もの兵卒が脚気に掛かっていると言う状態でした。しかし当時は、脚気がビタミンB1の欠乏による病気と言うこともまだ知られておりませんでした。英国留学経験を持つ海軍軍医高木兼寛は、大英帝国海軍においては脚気患者は皆無であることから、食事に注目し、「脚気は炭水化物をとりすぎ、たんぱく質が不足することから起こる」という仮説を立てました(脚気の原因はビタミンB1の不足なので、この説は今では正しくありませんが・・・)。

そしてその頃、大きな事件が起こります。明治16年、南米に練習航海に出た軍艦「龍驤(りゅうじょう)」の乗組員376名のうち169名が重症脚気患者となり、そのうち25名が死亡したのです。しかし、練習航海公開の帰途、ハワイのホノルル港で肉や野菜を調達して与えたところ、脚気患者は全員回復したとのこと。この高木兼寛の説を裏づけるような事件をきっかけに、高木兼寛は明治天皇に兵食の改善を奏上する機会を得ました。

そして明治17年2月、軍艦「筑波」が練習航海に出航。この練習航海においては、前回の反省を踏まえて高木兼寛の理想とする食材を満載し、前回の練習航海と同じ航路を辿らせました。その結果、この練習航海において脚気患者はゼロとなり、高木兼寛の説は証明されました。しかしこの航海で主食としたパンが兵卒に不人気だったことから、このパンの原料である麦と米を半分ずつ混ぜた麦飯を導入。その結果、兵卒にも広く受け入れられ、1年後には海軍から脚気が根絶したそうです。

一方、明治時代の大日本帝国陸軍では白米が主流でした。そのため、脚気による死者を多数出しました。しかしイギリス留学経験のある海軍軍医高木兼寛の「脚気栄養説」は、「脚気伝染病説」を主張するドイツ留学経験のある陸軍軍医総監森林太郎(森鴎外)に批判され、陸軍では麦飯は採用されず、白米の食事が続きました。そのため陸軍では日清戦争において3,944名の脚気死者を出し(戦死・戦傷死者は1,270名)、10年後の日露戦争では27,800余名の脚気死者を出しました(戦死・戦勝病死者84,200名)。一方、麦飯を導入していた海軍は脚気死者はゼロでした。そのため、大日本帝国陸軍も後に食事を麦飯にしております。

<公爵の独り言>
昭和天皇も日常的に麦飯をお召しになっていたそうです。

posted by 公爵 at 07:41| Comment(0) | TrackBack(2) | 組織 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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